私は、真昼の直射日光にうんざりしながら、眼前の丘を登って行く。
のろのろと、足取りは自然に重くなり、汗は何度拭いても止まる事を知らない。
けたたましく鳴く蝉の声が、嘲笑しているかのように聞こえる。
何故、私は行くのだろう。
そんな事を何度も思いながらも、やがて、帽子のつばの先にその姿が見えた。

巨大なメタセコイアの木の下で、彼はいつも見るように、ごろりと横になっていた。
こんなに暑いというのに、木陰のせいか涼しげな顔で、私が来るのをにこにこと待ち構えている。
とは言え、そんな彼の顔にも粒状の汗がいくつも浮いていた。
恐らく、季節を無視するかのように着込んだ、黒いジャケットが熱量を増しているに違いない。
それでも脱がないのは、彼らしいと思う。
傍らには、ジャケットと同じく黒くて汚い、ぼろぼろのオートバイが一台。
その後部座席には、荷物と言うのも憚られる、がらくたのような物が山と積まれていた。

「久しぶり。よく来てくれたね」

ようやく木の陰に入り、帽子を脱いで額を拭った私に、彼はそう言った。

「あなたが呼んだのでしょう」
「それはそうだが、まさか本当に来てくれるとは思わなかったのでね」

だったら、もっと意外そうな顔をして欲しいと思いながら、私は肩をすくめた。

「私はね、最後に文句のひとつも言わねばと思って、来たのです。
 自称『論理の預言者』であるあなたが、ペテン師だった事は今更良いでしょう。
 皆も薄々気付いていましたからね、あなたの戯言には」
「まったくだ。どうやら、僕は長いこと僕自身の名札を掛け違えてしまっていたらしい。
 だが、文句を言われるような事はした覚えが無いな」
「いつもそうやって、他人事のように言うのですね。
 だったら、こんなものまで用意して逃げる必要は無いでしょう」

私がオートバイの方に視線をやると、彼は身体を起こした。

「どうだい、良いだろう。これからの旅の相棒って奴さ。
 名前はガンマスピード号って言うんだ」
「古臭いし、ぼろぼろだし、真っ黒で熱そうだし、私は嫌ですね。
 それに、変な名前」
「そうかい」

口から出るに任せて自慢のオートバイを批判すると、それまで微笑んでいた彼が、少し表情を曇らせた。
お陰でようやく、私は暑さで漠然としていた溜飲を下げることが出来た。

「この場所で、僕の事を理解してくれているのは君だけだと思ったけどな」
「それは買いかぶりすぎです。
 だいたい、貴方ほど厄介な人が、他者にそうそう理解されるものですか。
 だから今まで、友達も恋人も要らないと言い続けていたのでしょう。
 それとも、お歳をとって少しは変化がありましたか?」

私の彼に対する責めが、やや饒舌になっている事は十分に自覚していた。
それでも、いつも自分勝手で我侭で嘘つきな彼を、こうやり込められるのは滅多に無い機会だ。
そして、もう二度と無いチャンスかもしれなかった。

「そうかもしれないね。
 自分で言うのも何だが、あらゆるものに対して臆病になった。
 始まりに不安し、終わりに悲観する事が多くなったかもしれない」
「でも、あなたは行くのでしょう?
 こんなものまで用意して、ここから離れるのでしょう?
 私に相談も無く、何もかも勝手に段取りを整えて、今更泣き言は無いでしょう」
「だから、さ」

彼は立ち上がると、座席に山と積まれて縛り付けられている荷物を、ぽんと叩いた。

「もし、君が一緒に来てくれるのなら、こんなもの達は投げ捨てていけばいい。
 代わりに君を乗せて、僕は旅立つ。簡単な事だと思わないか」

簡単な訳は無い。私は知っている。
その荷物が、彼がこの地で過ごした時間の中で獲得した、大事なモノ達であると知っている。
ようやく私はこの瞬間に、彼が呼んだ理由を知った。
本当は、彼自身にもう迷いなどは無いという事を。

「冗談は止めてください。
 あなたと顔を会わせる事が無くなり、清々すると思っていた所です。
 そもそも、あなたにそのガラクタを捨てられる訳がありませんしね」

私が憮然顔でそう言うと、彼は嬉しそうに笑った。

「そう、言ってくれると思ったよ。
 やっぱり、最後に君に会えて良かった」

彼は静かな声でそう言うと、私の頭を二度撫でて、そのままオートバイに跨った。
油で汚れたエンジンは、甲高い排気音を奏でて動き出す。

「………」

ヘルメットをかぶりながらの最後の言葉は、その雑音に紛れて聞こえなかった。
だが、聞き返す必要も無いくらいの、短くて簡潔な別れの言葉だろう。
私はそういう、飄々とした彼の姿は、嫌いではなかった。
でも、そんな事を口にしてしまえば、永遠に弱味を握られてしまう事になるだろう。
だから、生涯胸に秘めておこうと誓った。

左手を少し上げると、オートバイは走り出す。
別れを惜しむそぶりもなく、エンジンはすぐに全開。
振り返る事無く、丘を降り、どんどん小さくなっていく。

風をまいた排気煙は大気に散り、メタセコイアの青い香りがまた、周囲を包む。
それまで聴覚の外に居た蝉たちが、一匹、また一匹と、私の意識に主張を始める。
私は帽子をかぶり、つばを少し下げた。

もう、古いオートバイの音は、聞こえない。




"LOGICAL/PROPHET"

 完